工房の隣に村の薬師堂がある。それからは人家のない森が続いていて、
犬の散歩コースになっている。
途中、林に囲まれた池があったりして、細い道をたどると
村で一番標高の高い愛宕山の祠に至る。
山と言ってもちょっとした丘で、見晴らしがいいわけでもないそのてっぺんに、自然石の土台の上に小さな祠がある。
春になると金蘭が咲いていたり、思わぬ所でササユリを見つけたり、湿った沢にサンショウウオの仲間が住んでいたり、何よりもちょっと湿った森の中の空気がザワッとした不安感を伴って、包みこんで来る。典型的な人が入らなくなった里山なのだ。
薬師堂と愛宕さん、言わば村の守り神なのだが、この山に順番に欅を植えて、
百年後には欅の森にして、その木で椅子を作る。ここで取れる木だけを使い、それ以上の量は作らない。 百年プロジェクトを今年から始めます。
まず二十本。 欅の苗は育っている。
鉋仕上げは木を大切に扱う事を教えてくれた。祈りを持って木を植えようと思う。
2013年3月10日日曜日
2013年3月8日金曜日
kanna-finishの椅子展を始めて三年目に入った。今回は東京での初めての展示会。
タイトルはやはり“創造する椅子展”。
改めて「鉋仕上げ」って何なのだろうと問いかけてみる。
うーんやっぱり木が心底好きなのかな と思う。
この木の顔を見ていると、いろんな問題が氷解するように思えてくる。
以下はDMの為に書いた文章なのですが、まあこの通りです。
タイトルはやはり“創造する椅子展”。
改めて「鉋仕上げ」って何なのだろうと問いかけてみる。
うーんやっぱり木が心底好きなのかな と思う。
この木の顔を見ていると、いろんな問題が氷解するように思えてくる。
以下はDMの為に書いた文章なのですが、まあこの通りです。
椅子を創る
自由な形から様々な表現が可能な椅子はインテリアの中で独特な存在感を示している。
私が椅子に興味を持ったのは、多くの木工家と同じであったと思う。
しかし誰もが始めるデザインからのアプローチは、やはり行き詰まるのも早かった。
工芸家の椅子はおもしろくない。
デザイナーの椅子は軽薄だ。
この解決策はなかなか見つからなかった。
平成二十年、鍛冶師大原氏との出会いが無ければ、新しい椅子は生まれなかったに違いないと思う。
彼が持ってきた鉋は、それまでの物とは明らかに違っていた。
自ら採取した砂鉄から玉鋼を作り、打ち鍛えた鉋はそれは見事な切れ味を見せたのだ。
この鉋で椅子ができる。
私はその時、天啓を感じた。
木の見せる表情が違っていた。
その手触りや輝きが、おまえは今まで木を単に材料として見ていた と気づかせてくれた。
こういうことだったのか。
大切でとてつもなく大きな世界が、薄い一枚のカンナくずの下にある事に思い至った。
私は“木”を相手にしているのだ。
それは唯 自らの造形のための素材ではなく、 共に生きる自然の真の相棒なのだ。
いつも何かしら「違うな」と、小さな引っ掛かりを感じながら作業していたその答えは、毎日切ったり削ったりしている
ここにあった。そして常にあった。
何から形を発想するのか、何が人を惹きつけるのか、ディテールの美しさはどうすれば表現できるのか。
一つ一つのテーマが同じ根っこから出ている。
鉋で仕上げるという技術が引き金となり、木の本来の美しさが多くの困難に解決の糸口を与えてくれた。
そして、私は椅子を創る。
登録:
投稿 (Atom)